展覧会・イベント
夏の特集展示 2024
戦争の時代 日本における藤田嗣治 日常から戦時下へ
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開催概要
会期 | ~ |
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展覧会概要
軽井沢安東美術館(長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢東43番地10)にて、夏の特集展示2024「戦争の時代 日本における藤田嗣治 日常から戦時下へ」を2024年7月25日(木)から開催いたします。1920年代パリ、「乳白色の肌」で一躍時の人となった藤田嗣治は、1933年から日本を拠点に活動し、1938年以降は従軍画家として戦争画を制作しました。本展では、藤田が名声を手にしたパリ時代と、戦後、二度と日本に帰らぬ決意でスタートしたフランス生活時代とのはざまとなる、藤田が日本に滞在した1930年・40年代にフォーカスします。戦争の影が忍び寄り、次第に戦争へと巻き込まれていく藤田の内面に迫ります。
1920年代、「乳白色の肌」の裸婦で一躍時の人となった藤田嗣治。1929年に凱旋帰国展のために一時帰国した後、1933年からは日本を活動の拠点とし、1938年以降は従軍画家として戦争画を制作しました。しかし、戦後、戦争責任をめぐる問題で傷心した藤田は1949年にニューヨーク経由でフランスを旅立ち、それ以降、再び日本に戻ってくることはありませんでした。
藤田が長期にわたって日本に滞在した1930年代、次第に戦争の足音が近づきつつも、藤田は変わらず作品制作に意欲的でした。フランスや中南米での経験をもとに壁画を多く手がけ、メキシコで出会った人たちを描くほか、肖像画の制作も精力的にこなしました。また日本画を多く描いたのも日本滞在中でした。1934年には二科会にも所属し、日本を拠点に活躍していく姿勢を示しています。また藤田は外務省などから、海外へ向けた日本文化の紹介という任務を受けたこともあって、日本全国津々浦々を旅をし、日本の風景・風習・伝統を描きました。こうした日々を送るなかで藤田は、日本について綴った文章を多く残しています。一方、戦争が本格化するまで、藤田は「国際人」として作品や文章を通じてフランスを紹介することにも精力的でした。
1937年に日中戦争が勃発すると、藤田を含む多くの画家たちが従軍画家となり、母国のために制作に取り組みました。藤田の作品からは西欧的なモティーフは消え去り、画風は日本的なものへと変化します。その後は「銃後の生活」や戦場にフォーカスした作品を描いていきました。しかし、1939年4月、突如、藤田は5番目の妻となった君代と共に日本を後にし、パリに向かいます。そしてヨーロッパの戦局が悪化し帰国を余儀なくされるまで、藤田はフランスに留まり続けました。最終的に1940年5月に帰国、それから藤田は頭を丸め、戦争画の大作をいくつも手がけ、従軍画家としての使命を全うしたのでした。
渡仏の理由について藤田は「芸術を媒介として国際親善の一役を買って」出るためだったと述べていますが、真相はわかっていません。1939年に藤田が記した日記や手帳を見るかぎり、戦時下であるということを除いては、かつてのパリ生活と大きく変わったところはみられず、日々、作品を制作し、現地の日本人とさかんに交流しました。ただ戦局には敏感で、戦時下での出来事を詳細に記録しています。そして日本に再び戻ってきた藤田は戦争画の制作に没頭し、《アッツ島玉砕》(1943年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館蔵)をはじめとする大作を生み出していきました。
本展では、藤田が名声を手にしたエコール・ド・パリ時代と戦後のフランス生活とのはざまにある時代、すなわち、藤田が日本に滞在した1930年代、40年代にフォーカスします。日常に戦争の影が忍び寄り、次第に戦争が激しくなるなかで生み出された藤田の作品、そして土門拳撮影による貴重なポートレート写真をご紹介します。当時の藤田の心情に思いを馳せながら、鑑賞をお楽しみください。
1.初公開作品をご紹介!本展では、新たに加わった作品3点を初公開します!
2.海外との架け橋として―日本の藤田に注目
1929年、そして1933年から1949年まで日本に滞在した藤田。大戦中の藤田は国民の戦意高揚につながる《哈爾哈河畔之戦闘》(1941年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館蔵)や《アッツ島玉砕》(1943年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館蔵)といった大作の従軍画家として知られていますが、それ以前の藤田は地方の風景や日本の伝統、日本女性などについてについて語り描き、それらを世界に向けて発信する役割を担っていました。1938年3月、藤田がピカソに宛てた手紙には、日本の良さとともに、日本が軍国主義一色の国ではないことが綴られています。本展では戦争の足音が近づきつつも、まだ平穏な日常下にあった日本における藤田の様子を、所蔵作品や解説と共にご紹介いたします。
3.特別展示を同時開催!
「藤田嗣治 日本における『本のしごと』 藤田が見たフランス」
会期:2024年7月25日(木)〜9月24日(火)
ジャポニズムが再燃した1920年代のパリにおいて日本を紹介する「本のしごと」に携わった藤田は、今度は戦争が本格化するまでの日本においてフランスの風俗や流行、女性などをテーマに「本のしごと」を手がけました。なかでも女性の活躍や海外文化を紹介する婦人雑誌は、海外生活の長い藤田を歓迎し、表紙絵の制作を藤田に依頼しました。特別展示では『本のしごと』を通じて藤田が見たフランスをご覧いただくとともに、戦争が間近に迫りつつも、1930年代の日本社会に漂っていた進歩的な空気を、是非、お楽しみください。
本展について
1920年代、「乳白色の肌」の裸婦で一躍時の人となった藤田嗣治。1929年に凱旋帰国展のために一時帰国した後、1933年からは日本を活動の拠点とし、1938年以降は従軍画家として戦争画を制作しました。しかし、戦後、戦争責任をめぐる問題で傷心した藤田は1949年にニューヨーク経由でフランスを旅立ち、それ以降、再び日本に戻ってくることはありませんでした。
藤田が長期にわたって日本に滞在した1930年代、次第に戦争の足音が近づきつつも、藤田は変わらず作品制作に意欲的でした。フランスや中南米での経験をもとに壁画を多く手がけ、メキシコで出会った人たちを描くほか、肖像画の制作も精力的にこなしました。また日本画を多く描いたのも日本滞在中でした。1934年には二科会にも所属し、日本を拠点に活躍していく姿勢を示しています。また藤田は外務省などから、海外へ向けた日本文化の紹介という任務を受けたこともあって、日本全国津々浦々を旅をし、日本の風景・風習・伝統を描きました。こうした日々を送るなかで藤田は、日本について綴った文章を多く残しています。一方、戦争が本格化するまで、藤田は「国際人」として作品や文章を通じてフランスを紹介することにも精力的でした。
1937年に日中戦争が勃発すると、藤田を含む多くの画家たちが従軍画家となり、母国のために制作に取り組みました。藤田の作品からは西欧的なモティーフは消え去り、画風は日本的なものへと変化します。その後は「銃後の生活」や戦場にフォーカスした作品を描いていきました。しかし、1939年4月、突如、藤田は5番目の妻となった君代と共に日本を後にし、パリに向かいます。そしてヨーロッパの戦局が悪化し帰国を余儀なくされるまで、藤田はフランスに留まり続けました。最終的に1940年5月に帰国、それから藤田は頭を丸め、戦争画の大作をいくつも手がけ、従軍画家としての使命を全うしたのでした。
渡仏の理由について藤田は「芸術を媒介として国際親善の一役を買って」出るためだったと述べていますが、真相はわかっていません。1939年に藤田が記した日記や手帳を見るかぎり、戦時下であるということを除いては、かつてのパリ生活と大きく変わったところはみられず、日々、作品を制作し、現地の日本人とさかんに交流しました。ただ戦局には敏感で、戦時下での出来事を詳細に記録しています。そして日本に再び戻ってきた藤田は戦争画の制作に没頭し、《アッツ島玉砕》(1943年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館蔵)をはじめとする大作を生み出していきました。
本展では、藤田が名声を手にしたエコール・ド・パリ時代と戦後のフランス生活とのはざまにある時代、すなわち、藤田が日本に滞在した1930年代、40年代にフォーカスします。日常に戦争の影が忍び寄り、次第に戦争が激しくなるなかで生み出された藤田の作品、そして土門拳撮影による貴重なポートレート写真をご紹介します。当時の藤田の心情に思いを馳せながら、鑑賞をお楽しみください。
みどころ
1.初公開作品をご紹介!本展では、新たに加わった作品3点を初公開します!
2.海外との架け橋として―日本の藤田に注目
1929年、そして1933年から1949年まで日本に滞在した藤田。大戦中の藤田は国民の戦意高揚につながる《哈爾哈河畔之戦闘》(1941年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館蔵)や《アッツ島玉砕》(1943年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館蔵)といった大作の従軍画家として知られていますが、それ以前の藤田は地方の風景や日本の伝統、日本女性などについてについて語り描き、それらを世界に向けて発信する役割を担っていました。1938年3月、藤田がピカソに宛てた手紙には、日本の良さとともに、日本が軍国主義一色の国ではないことが綴られています。本展では戦争の足音が近づきつつも、まだ平穏な日常下にあった日本における藤田の様子を、所蔵作品や解説と共にご紹介いたします。
3.特別展示を同時開催!
「藤田嗣治 日本における『本のしごと』 藤田が見たフランス」
会期:2024年7月25日(木)〜9月24日(火)
ジャポニズムが再燃した1920年代のパリにおいて日本を紹介する「本のしごと」に携わった藤田は、今度は戦争が本格化するまでの日本においてフランスの風俗や流行、女性などをテーマに「本のしごと」を手がけました。なかでも女性の活躍や海外文化を紹介する婦人雑誌は、海外生活の長い藤田を歓迎し、表紙絵の制作を藤田に依頼しました。特別展示では『本のしごと』を通じて藤田が見たフランスをご覧いただくとともに、戦争が間近に迫りつつも、1930年代の日本社会に漂っていた進歩的な空気を、是非、お楽しみください。
出展作品のご紹介
- 初公開作品 《猫》1929年 墨・絹本
- 藤田と幼少期から親交のあった水戸徳川家13代当主圀順(くにゆき)が、1929年、『大日本史』の編纂を完成させた功績として公爵となった際、藤田がお祝いの品として描いた墨絵。パリで成功し、凱旋帰国中だった1929年に描かれた作品と思われます。戦後、パリに戻ってからも続いた二人の友情。圀順の功績を心から祝う藤田の気持ちが感じられるような優しい筆遣いにご注目ください。
- 初公開作品 《九江 航空隊 整備》1940年 油彩・キャンバス
- この作品は、1938年7月26日から日本軍の支配下にあった長江(中国)の港町・九江での様子を描いた油彩作品です。1938年10月、藤田は海軍省嘱託として、藤島武仁、石井白亭、中村研一らとともに漢口攻略戦に向かいましたが、その経由地となったのが上海と九江でした。九江で迎えた朝について藤田は「トラックの音、兵士達の作業するハンマーの音、船の汽笛、荷揚げの騒音、雀の声、トンビの鳴き声、九江は朝から賑やかである」と自著に記しています。戦時下でありながら日常的な賑わいの一コマを、淡くも色鮮やかに描いた藤田の作品をお楽しみ下さい。
- 初公開作品 《道で遊ぶ子供たち》1955年 紙・墨
- 本作品は、1936年5月、フランスの文化人ジャン・コクトーが日本を旅行したときの思い出を綴った『海龍』(1955年 ジョルジュ・ギヨ社)におさめられた挿絵のひとつです。11日間にわたるコクトーの日本滞在に同行したのが翻訳家の堀口大學と、当時、日本を拠点に活動していた藤田でした。作品の制作年は1955年ですが、ここにはコクトーとともに藤田が目にした1930年代の日本の風景が描かれています。
- 『ホーム・ライフ』(表紙:藤田嗣治 1937年4月号 大阪毎日新聞社/東京日日新聞社 軽井沢安東美術館蔵)
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同時開催
「藤田嗣治 日本における『本のしごと』 藤田が見たフランス」
会期:2024年7月25日(木)〜9月24日(火)
同時開催
テーマ展「藤田嗣治 エコール・ド・パリの時代」(展示室2)
1913年に渡仏した藤田は、「乳白色の肌」でヨーロッパを席巻する1920年代まで、さまざまなスタイルを模索しますが、そこには日本人として大成する変わらぬ決意と自由な画風を重んじた、彼を取り巻く画家たちの影響がうかがえます。本展では独自のスタイルの確立を目指して挑戦し続けた藤田の作品を、当館コレクションとともにご紹介します。
画像右:《二人の少女》1918年 油彩・キャンバス 軽井沢安東美術館蔵
1913年に渡仏した藤田は、「乳白色の肌」でヨーロッパを席巻する1920年代まで、さまざまなスタイルを模索しますが、そこには日本人として大成する変わらぬ決意と自由な画風を重んじた、彼を取り巻く画家たちの影響がうかがえます。本展では独自のスタイルの確立を目指して挑戦し続けた藤田の作品を、当館コレクションとともにご紹介します。
画像右:《二人の少女》1918年 油彩・キャンバス 軽井沢安東美術館蔵