藤田嗣治について
パリに最も愛された日本人画家
藤田嗣治
(レオナール・フジタ 1886~1968)
明治なかばの東京で生まれた藤田は、東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業後、26歳で画家になる志を抱いて単身フランスに渡ります。試行錯誤の末に独自の画風を確立、のちに藤田の代名詞ともなった「乳白色の下地」の裸婦作品で1920年代のヨーロッパ画壇を席巻し、一躍エコール・ド・パリの寵児となりました。第二次世界大戦中に日本で作戦記録画を制作。戦争責任を問われて挫折を味わった後、再びフランスに戻り、晩年はフランス人レオナール・フジタとして穏やかな生活を営みながら精力的に制作を続けました。1968 年に81 歳で亡くなり、自らが建てたランスにある平和の聖母礼拝堂(フジタ礼拝堂)に埋葬されました。この礼拝堂は藤田自身が着想し、デザインしたもので、藤田が描いた壁画(フレスコ画)で有名です。